‘いつか どこかで’ カテゴリーのアーカイブ

【APF SP】 第4回 《いつか どこかで》 木野村レポート ~福島第1原発の事故による放射能漏れの脅威にさらされている福島県

2011年6月25日 土曜日


今回の「いつか どこかで」~ sometime somewhere ~は、福島第1原発の事故による放射能漏れの脅威にさらされている福島県からの報告です。
今回の目的地である福島県は3月11日の夜以降、この3ヶ月で何度も足を運んだ場所。
深夜に東海支局を出て東京経由で取材車サファリが向かったのは「ビックパレットふくしま」。
http://www.big-palette.jp
福島県浜通り地方の住民が多く避難している施設だ。
(避難者は当初2,000人→現在約800人)
今回の福島取材で何故、この場所を選んだのか?それは、震災発生から100日が過ぎ、日本中の多くの人たちの中で、「震災は過去の出来事」になりつつあるからだ。私の知人たちもワイドショー等から伝えられる断片的な情報を元に、まるで現場を知っているかのような話をする。わずかな情報で多くを知ったようなつもりでいるが、本当はほとんど何も知らないことに気づいていない。多くの被災地では今も、終わりの見えない深刻な現実が続いている。
(いくつかの写真については、プライバシーの保護のため、シャッタースピードを遅くして写真のピントを甘くして撮影しています。)

まず館内に入り、最初に目に飛び込んできたのがこの光景。1階部分の大きな区画にある布で個別に仕切られた居住スペース。表札の代わりに名字が書かれた紙の札がぶら下げてある。奥行き50メートル程の通路が6列ほどあり、その左右に部屋が作られている。高さは約2メートルで広さは約3畳。ここから仕事や学校に通っている人も多くいるという。

室内写真。これでもまだ良いほうだと聞くが、隣の部屋とは90cm程の段ボールと布切れ1枚で仕切られている。天井は無い。整理はされてはいるが、荷物を置き、布団を敷いた状態ではどう考えても狭い。この区画内に部屋を持つ老女の話では、最初は3階に居たが1階に降りてこられたので脚腰が楽になった。ただ、床からの底冷えがあり堪えるとの声も。

写真をよく御覧いただくと解るが、手前から4区画ある。中心の一番大きな区画は2人分のスペースなので写真で見ると割と大きく感じるかも知れないが、それでも6畳間ほどしかない。先日、ワイドショーのコメンテイターが「東北の人は我慢強い。もう少し我慢してもらって・・・」という何とも言えないコメントをしていたが、この状況を知った上で話しているのだろうか?間仕切りに使われている段ボールに日の丸をイメージしてプリントされた「ひとつになってがんばろう日本」という文字。本当に気持ちまでひとつになっているのだろうか?フリをしているだけではないのだろうか?

弓型の壁に対しかまぼこのような形に仕切られた空間。薄いカーテンの右に「対応口」と書かれた札が下がる。玄関をイメージしているのか、その下には、盆栽が置いてある。また写真では端が切れてしまっているが、左奥にある線量計には「毎時0,13マイクロシーベルト」の表示。室内であってもここで24時間過ごせば、1年間の被爆量は1,138マイクロシーベルトとなる。

メインの出入口から管理事務所に向かう通路に面した避難スペース。この区画の中には自販機が2台設置してあり、しかも稼働していた。写真には写らないようにしているがこのスペースの中では、おばあさんが横になって眠っていた。通路を行き交う人から区画内は丸見えなのだ。「ビックパレットふくしま」は、非常に大きなイベント施設ではあるが、僅かな空間であっても活用しなければならないのが現状だ。

取材に行ったその日、東京にある「東京声優プロデュース」という声優養成学校の訓練生たちがボランティアで公演に来ていた。約40人程で関西と関東からの合同チームとのこと。今回の訪問は5月の初めに続き2回目。写真のように子供たちは彼らからベッタリくっついて離れない。「子供たちが少しでも笑顔いられる時間を作りたい」と、前列右の金色のズボンを履いた男性(ノザキレイキさん・21歳)は話していた。
また今回、避難所の人たちから様々な声を聞いた。避難所に残る人からは、「もうちょっと我慢するしかない。出て行くと支援の状況が変わってくる。」「家も仕事も無いので出ろと言われるまではここに居たい。」仮設住宅に当選し、入居が決まった人は、「まわりの人に迷惑をかけられないし、引っ越しは自分でボチボチやっている。仮設に当たった事は嬉しいが正直、不安はある。」また、私の友人で石巻を中心にボランティア活動をしている人が、「5月の連休以降、ボランティアが激減した。それに以前に比べて、受援される側の気持ちもずいぶん変わってきている」という話も聞く。
今回のまとめとして、新聞はもとより、インターネットが発達している今、現場の声を探り、聞く方法はいくらでもある。わずかでも時間があるのなら、現場の人たちの仕事や生活は?子供たちの状況は?動物たちはどうしてる?など、そこに自分が置かれているつもりになって、現場に何が必要なのかを考えてみることも大切なのではないだろうか?目を背けることや見なかったことにすることは簡単だが、本当にそれでよいのだろうか?
みなさんはどう考えますか?  
ではまた、「いつか どこかで」~ sometime somewhere ~
取材日/2011年6月18日
記事・撮影/木野村 匡謙

【APF SP】 第3回 《いつか どこかで》 木野村レポート ~岐阜県岐阜市の中西郷「なかさいごう」

2011年6月15日 水曜日


今回の「いつか どこかで」~ sometime somewhere ~ は、岐阜県岐阜市の中西郷「なかさいごう(岐阜市の北西部)」にある、板屋川・八王子橋及び八王子神社付近からの報告です。
(今回の写真は、感度を上げて撮影をしており、全体に少し粗くなっています。)

私は、過去にこの近隣に住んでいたことがあり、この場所には何度か来たことがあります。約10年振りにこの場所に立ち、最初に思ったは「ずいぶん景色が変わったな」ということ。
私が知っているこの場所は、川沿いに学校、神社があり、その社を囲むように薄暗い杉林が立ち、あとはわずかな民家、田畑や水田のほか、ホタルが生息するこの板谷川以外には何も無く、本当にほのぼのとした情景が広がっていたはずだったのですが―
着いた時は、まだ空も薄暗い程度で、川のほとりに立ち並ぶ新しい住宅、整備された道路や信号、コンビニもハッキリと確認できたので、正直、「こんなに変わっちゃって、ホタルなんているの?」というのが率直な第一印象でした。
しかし、暗くなるにともない「ホタル」が舞い始めたのです!
最初のうちはわずか数匹だったので、環境が変わると、「この程度かな?」と思っていたのですが、予想に反して沢山出てきました。

さて、そんな中、近くにいた初老?のおじいさんが、真っ暗な中で写真を撮り続ける私のことが気になったのか、こちらをチラチラと見ていたので、「すみません、お話を聞かせていただけますか?」と訪ねると、「待ってました」とばかりに話をしてくれました。実際、アポ無しで突撃取材する場合は、こういう人の存在は本当にありがたいです。デモ中継でもそうですが、声を掛けるのは割と難しいものです。
以下、このありがたいおじいさんの話。
ホタルは、「ゲンジボタル」という種類で自然発生したもの。近隣の住民や子供たちも普段から、「板谷川をキレイに!」という意識をもっている。ここは特に観光地や商店街ではないので、ホタルがまちの大きな収入源になるわけではない。逆に見物客が増えると交通渋滞や路上駐車の問題、ゴミのポイ捨て等の問題が出てくる。またホタルという生き物はあまり遅い時間には光らないが、それを知らない人は、より暗くなる遅い時間に来たり、構わず騒ぐ若者や車の騒音等の問題もある。でもホタルが飛び交うのは1年で2週間程のことなので、近隣の住民もある程度は寛容な気持ちで、この自然からのささやかなプレゼントを少しでも沢山の人と分かち合いたいと考えている。ホタルの寿命は約10日で、光を放つのは交尾の為である。

実は今回、歌の歌詞にもあるように、「蛍の光~♪窓の雪~♫」と絡め、「光というのは実に尊いもの。明かりのなかった昔は僅かな光でも利用して暮らしていた」という結びを考えていました。
しかし、取材中にある光景に出くわし視点が変わりました。
それは、ホタルの光を妨げる車のヘッドライトでした。親子でホタルを見ていた人が「まぶしいなぁ。ライト消せよ。」と隣で呟いたのです。今夜は場所が場所なので当然だとは思いますが、こんな状況だと人は「明かり」を嫌がるのです。
本来「明かり」というのは人が慣れ親しんだ非常に便利でありがたいものです。例えば、僕らの仕事は今回の取材を含め、車内で機材のセッティングや整理をすることが日常的にありますが、そんな時は、ルームランプのスイッチを押すだけで車内が明るくなり、仕事に入ることができます。自動車のライトは燃料を元にして発電しているのでチョット意味合いが違ってはきますが、世の中の多くの「明かり」は電力会社の発電によって作られ、私たちはそれを買って使っています。
しかし、この夏はいつもの夏とは違います。
大震災を引き金にした福島原発の問題から始まり、日本中で原発運用の是非について議論が起こり、「節電」が叫ばれるようになり、聞かない日はありません。実際に生産工場などでは、木金に操業を停止し、電力消費の少ない土日を稼働日としたり、企業では、サマータイムの導入やエアコンの設定温度を高くするなど、多くの案が出され、また役所等では恒例のクールビズをさら進化させたスーパークールビズの採用、更にはアロハシャツや短パンの着用など、自分としては「ちょっとソレどうなの?」という動きも出てきています。
去る6月11日、震災より3ヶ月という節目でもあり、現状なかなか収束することができない福島原発の状況や、それによる放射性物質の飛散に対して、日本をはじめ世界中で反原発の運動が起こり、多くの人々がデモに参加し、私自身も岐阜と名古屋をハシゴする形で現場取材に出向きました。
デモでは、「反原発」・「脱原発」・「原発廃炉」などの文言やプラカードが飛び交っていましたが、この危機的な状況の中で「反原発」に賛同することと引き換えに一体どれほどの人がこの夏に訪れるであろう電力不足に対して具体的な「節電」という行動に取り組んでいけるのでしょうか。
電力会社のある試算では、「消費電力に対し、発電量が約15%不足する」という具体的な数字が提示されました。15%であれば何とかなりそうな気もしますが、気温により状況は変わるでしょうし、実際に生活の中で15%を絞るとなると、頭で考える以上にかなりの努力が必要になります。更にいえば、15%という導き出された数字について、具体的な根拠はあるのでしょうか?
今回の「節電要請」は、オイルショックがあった1972~73年以来、約40年振り。つまりは、この国が原子力発電に依存し、発展してきたという歴史ともピッタリと合致するのです。きっと今年の夏は、個人レベルで相当の覚悟を持ち「節電」について考え、実行していかなければならない特別な夏になるでしょう。現実に乗り切ることができれば、脱原発に一歩近づけることにもなります。
しかし、乗り切れないとなれば、浜岡をはじめとした多くの原発に再び火を入れる事になるかもしれません。わずかな光ではあるが、周りをほんのりと照らすホタルに「お前達に本当に出来る?」と聞かれているような気がしました。みなさんはどう考えますか?   
ではまた、「いつか どこかで」~ sometime somewhere ~
現地取材 /平成23年6月8日(水) 
記事・撮影/木野村 匡謙
西郷ほたる祭/2011年5月27日(金)~6月12日(日)頃(20~21時) 
駐車場/あり
場所/岐阜市中西郷3丁目付近(東海北陸道岐阜各務原ICから一般道を北西に40分)
問い合わせ先/058-239-2473(西郷公民館内 水と親しむまちづくり推進協議会)
       058-232-7181(岐阜市農林畜産センター)

【APF SP】 第2回 《いつか どこかで》 木野村レポート ~岐阜県海津市の勝賀

2011年6月7日 火曜日


今回の「いつか どこかで」 ~ sometime somewhere ~ は、岐阜県海津市の勝賀「かつが」という場所(JR岐阜羽島駅から南西に車で10分程)からの報告です。

仕事柄、普通の人よりは周りの何かを探すような習慣になっているとは思っていますが、目の前に広がるこの場所は、まさに『金色(こんじき)の大地』そのものだったのです。
早速、畦道に車を停め、写真を撮ることにしました。
ちなみに私は、ほぼ毎週末にある習慣を履行するためにこの場所を車で走っています。
(それについては、今後の「いつか どこかで」の中で報告させていただく予定です。)
この景色を観て最初に思ったのは素直に「美しい」ということ。
それとアニメ映画「風の谷のナウシカ」のエンディングの映像。20年以上前の作品ですが、主人公の少女が生き返る?シーンで、それを見た老婆のセリフは「その者、青き衣をまといて金色(こんじき)の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結びついに人々を青き清浄の地に導かん。」
映画のあらすじは、極限まで発達した人類の文明が最終戦争を引き起こした結果、人間の生活圏が腐海と呼ばれる通常の生活が出来ないような深刻な状況になり、従来の動植物は一切生息できず、腐海の周辺に住む人間の健康や作物の生育にも深刻な影響を及ぼしてしまう。人間や家畜が腐海に分け入る際はマスクを身につける。わずかに残った人間は、風向きに守られマスク無しでも人が暮らすことができる小さな「風の谷」で細々と暮らしながら腐海と共生していくという内容なのです。

それを思った次の瞬間、記憶の中にある映画の1シーンと目の前に広がる美しい光景が、福島をはじめとした被災地周辺の状況とリンクしたのです。
でも、リンクしただけで終わらないのがジャーナリスト。「何故ココにコレがあるの?」という次なる疑問が生まれてきます。そうなると、それを解決する為には直接声を聞くことです。
取材では、記事にするために状況や既得情報を再確認するのは勿論ですが、現場で直接得られる新情報や声は自分の想像を覆し新しい事実に導いてくれます。
というわけで、朝7時過ぎということでかなり早い時間でしたが、キョロキョロしながら人を探すと路肩に停まる一台の電動カートが目に留まりました。早速、そのまわりを探してみると農作業をしている女性を見つけました!
流石にその映画に出てくるような青い衣を着た人ではありませんでしたが、タマネギを引いていた女性に声を掛けると仕事の手を止め、この『金色の大地』について話を聞かせて下さいました。
以下、女性から聞かせていただいた話をまとめます。

まず最初に結論から言うと、この『金色』の正体は『麦』とのこと。
昨年の秋、お米の収穫が済んだ土地にあらためて種を撒き、冬を越えて今収穫の時期を迎えたとのこと。収穫後は、組合に出荷し加工された上で最終的には、一般家庭の食卓や学校の給食などになる。冬の寒さにも耐え育ちすぎる場合は、いわゆる「麦踏み」を行い発育を遅らせることもある。
この広大な土地は、「休耕田」なので麦の収穫後は水稲を植えることは無く、大豆(枝豆)の生産にとりかかり、秋には収穫する予定とのこと。なるほど!農地は長いスパンで計画を立て生産していることがわかりました。
続いて、福島をはじめとした被災地近隣の農作物等の出荷制限や放射線量による摂取制限について訪ねると、若ければ現地に行って何か手伝いをしたいが、年老いた自分では何もしてやれない。地域の皆とも話はするが、「ただ気の毒というしかない。普通に作物を作り、出荷できるということがどれだけありがたいことか。」と話す。
また、インタビューの間、女性の背後には数匹にモンシロチョウが飛び交う本当にのどかな状況で、きっと、あの震災さえなければ被災地等の多くの場所で同じような光景があったのでしょう・・・。
私自身が3月と4月にチームと共に訪れた被災地では、津波の被害を直接受け流されてしまった農地はもちろん、直接被害を受けなかった農地でも多くの問題が残る。
まず、住民避難により作物を作ることが出来ない現実がある。
次に、たとえ収穫できたとしもなかなか出荷ができない。
そして、たとえ出荷ができたとしても安くしか売れないという現実。
その結果、福島県では福島県野菜の摂取制限が出た3月末に有機栽培に30年以上取り組んで来た男性が自殺してしまった。
現在、ワイドショーやニュースなどでは風評被害という言葉のもとに、野菜をはじめとした食品の安全性についての是非が問われているが、安全であるなら誰よりも農作物について詳しいであろう農家の方が、自殺という道を選ばなければならなかったのかを考えてみる必要もある。
また、こんな事例もある。
4月末に内閣官房参与の小佐古東大大学院教授が小児被爆線量の基準を20ミリシーベルトに引き上げることについて、「とんでもなく高い数字。自分の子供をそんな目に遭わせるのは絶対嫌だ。」と声を詰まらせ泣きながら会見し、1ミリシーベルトでの運用を強く訴えたたうえで、翌日には辞任しているという衝撃的な事実もある。
まとめとして、まずは現実を知る事、自身で事実を確かめること、そして真実を見極めること。
誰でもいろんな事に対して自分にとって都合の良い方向に考えたいという気持ちはあるとは思う。でも、そういった目の前の現実から目を逸らさず真剣に考え向き合うことで、もういちど「大地との絆」を考え、人々がこの地球で末永く暮らしていけるように向き合う覚悟を決める時が来ているのではないでしょうか?
みなさんはどう考えますか?
ではまた、いつか どこかで。~ sometime somewhere ~  
※今回の取材で瑞々しい大きなタマネギをいただきました。とても美味しかったです。ありがとうございました。
取材 H23年6月5日(日)
記事/撮影 木野村 匡謙

【APF SP】 第1回 《いつか どこかで》 木野村レポート ~中部電力浜岡原子力発電所

2011年5月31日 火曜日


今回の「いつか どこかで」は、中部電力浜岡原子力発電所の周辺取材に来ました。

3月11日の東日本大震災の影響を受けた福島原発の深刻な現状から全世界的に原子力発電所の在り方を問う風潮が高まっています。ツイッター等を見ていても原発即停止や原発全廃の文言がならび、震災後、ドイツ等の諸外国を含め日本でも都内をはじめとして、毎週のように全国的にデモやパレード、勉強会等が行われています。
そんな中、6月11日に名古屋の市街でも反原発のデモが行われるということで、当日も取材に向かう予定のAPF通信社としては、先ずは現場に立って自身で感じなければ何も伝えられないという観点から中部電力浜岡原子力発電所の周辺取材に来ました。

カーナビの画面 海岸線まで200メートル
台風2号の影響による雨天の中、東名高速を走り、名古屋より約1時間で掛川ICに到着。掛川ICを降りると茶畑をはじめ穏やかな町並みが続き、約20分程で浜岡原発に到着です。去る5月6日に総理大臣からの運転停止要請を受け、9日に中部電力が要請を受諾したため、原子炉の運転停止からすでに3週間が経とうとしていますが、休日の早朝ということもあり、隣接する国道を走る車もまばらで原発もその周辺地域もとてもひっそりとしています。

浜岡原発の南西側の海岸

浜岡原発の西側道路
さて、現場に立ち先ず思うことは丘というか山の頂にある原発はフェンスと木々に囲まれ、とても安易に近寄れないという印象でした。東側の入口には警察の白黒パトカーが待機し、都内でよく見かける官公庁や大使館の警備と同じようにその建物自身の重要性を感じさせますが、その反面では一般に見学できる施設も併設され、完全に閉ざされた施設というわけでもないようです。また、原発のすぐ西側では巨大な風車がいくつも回り、圧倒されるような光景でもあり、実際に原発のすぐ隣で風力を利用した発電も行われているのだということもわかりました。

施設西側の風車
その後、近くを歩きいくつかの声を聞いてきました。以下、例を挙げ自身の感想を添えます。
原発に隣接する浜岡砂丘には多くのサーファーが訪れ、波を楽しむ姿もみえました。地元はもちろん、遠くは関東や関西のナンバーの車両も来ていましたので声を聞くと関東から来ていた若者は「関東の海には若干抵抗があるので波を求めて来ました」と話し、いつもより少し荒いであろう波に向かってパドルを始めました。(20代男性)
→正直、原発についてどうこうではなく、今、楽しいことが大事?という感じでした。
原発近くのコンビニでは操業停止以降、原発関連の客足が若干減った感じがするとの声も聞かれ、商売として考えるとこの先の状況がどうなっていくか複雑な気持ちもある。(30代男性)
→やはり、これだけの巨大な施設があり、それが稼働しているのとしていないのでは、発電所に関わり、来所する人たちの数に違いが出たとしても不思議ではないと思います。
傘を差し散歩をしていた女性は、知り合いが原発関連の仕事をしているので複雑ではあるが、福島の状況をみるとやはり一旦運転を停止して安全確保を優先してもらいたいとの声も。(60代女性)
→これだけの施設ですから原発の近くに住み、それで生活をしている人も多くいるようです。

原発の東門(右奥の建物が5号炉)
今回、発電という観点で考えれば、風力であれ火力であれ原子力であれ、それぞれの長所と短所が存在し、また、防災という観点で考えれば、ある程度を基準とした想定のもとに全てのものが設計され作られる。放射能汚染の問題でも自分の中の基準をどこに置いて、どこまでを自分の許容の範囲にするか? その為には自分でどれだけの知識や情報を集め、その真意を自分で確かめることが大切だと考えます。浜岡原子力館の展望タワーでも案内板に「海抜62m」とあり、今回の大震災では非常に高い津波が、いたるところで発生したわけですから、もしここで同じことが起これば大変な結果になるでしょう。

5号炉
多くの人は、今回、浜岡原発が運転を停止したことである程度の安堵感に包まれていると思います。でも、私の感覚では、ガスコンロの上に置いた鍋の火を消しただけのことでまだ鍋には煮えたぎった物が入っている。それが冷めるにはまだまだ長い時間がかかり、出来ることなら冷めたものであってもコンロの上から降ろさないと、ひっくりかえる可能性だってある。地盤が危険であると言われる浜岡原発ならなおさらなのかも知れません・・・。
今回の取材のまとめとして、あの大地震の当日、震度6の地震が続く夜の中央道を東京に向かい、都内でチームと合流し、通行止めになった東北道を北に向かって車を走らせて以降、私自身は「完全なものは無い」と考えるようにしています。というより、崩れた屋根や割れた高速道路、倒れてしまった新幹線の架線を直接見たことでそういう気持ちになりました。そして、あの日以来、色々なことに対する気持ちが大きく変わりました。でも現場に入った一人のジャーナリストとして、今回の大震災で起きてしまったことを伝え、自分の身近なものに置き換えることで、もう一段さらに理解を深め、今回の出来事をニュースで聞いた遠くの町での悲しい出来事としてではなく、自分や恋人、家族、大切な人が、あの日起きてしまったことの 当事者になったとしたら・・・? と素直に置きかえることができたとしたら、原発問題だけでなくこれから山積するであろう多くの問題に対しても違った感覚になれるのではないでしょうか?

浜岡砂丘
みなさんはどうでしょうか?
では、また「いつか どこかで」
2011/5/31 木野村 匡謙